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筒井康隆『残像に口紅を』

  • 執筆者の写真: ゆずは 鳥乃
    ゆずは 鳥乃
  • 6月9日
  • 読了時間: 6分

※この記事には作品のネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。



今回読んだのは『残像に口紅を』(中公文庫)です。


買いたいものがあったので普段は行かない本屋さんに入ったら、この本が面出しで紹介されていました。

帯には「TikTokで話題!」と書かれていて、TikTokをインストールすらしていない私はそこには特に関心を抱きませんでしたが、思い出の中でこの本のタイトルを聞いたことがあるのを思い出しました。


私が学生だったとき、図書委員が主催して「ビブリオバトル」というのをやっていました。

ビブリオバトルでは、参加者が自分の好きな本を一冊持ってきて、5分間でその本のプレゼンをします。そのあと本の魅力をより引き出すためのディスカッションを少しやって、誰が紹介した本を一番読みたくなったかを決める。こんな感じの会です。

そのビブリオバトルでこの『残像に口紅を』が紹介されていたのを思い出しました。

うわ懐かしい。面白そうだからいつか読もうと思ったのにまだ読んでないな。よし、買おう。


『残像に口紅を』がどんな本かというと、小説が進むにつれて使える音が減っていくという試みの本です。

たとえば「あ」という音が消えると、小説の中で「朝」という言葉は使えなくなるし、名前に「あ」の音が入る人は世界から消えてしまう。

ジャンルはメタフィクションで、主人公で作家の勝夫は世界から音が消えていく中で生活し、この『残像に口紅を』を書いていきます。食事をし、作家として講演会をし、愛しい人と交情し、それらすべてを限られた音の中で描写していきます。

今の今まで話していた娘の名前に含まれる音が消えたときには、さっきまでいたはずの自分の娘が世界から消え、周囲の記憶からも消え、やがては自分の記憶からも薄れて消えていきます。

勝夫は音が消えることで愛しい何かが消えていき、確かに何かが消えたのにその何かを口にし、描写することができないことを悲しみます。

そうしてどんどん世界からさまざまなものが消えていき、最後には一音も残さずに消えてしまいます。


そんな小説なので「読みにくいんじゃない?」と思われるかもしれませんが、本の半分まで進んでもまだまだ全然読みにくくなりませんでした。多少音が消えたくらいではいくらでも言い換えができて、日本語ってすげえや、という感じです。

さすがに途中からは短く簡単に描写するための言葉が足りなくて難しい言葉が出てきたり、回りくどい言い回しになったりして読みにくくなりますが、初めのうちの読みやすさを知っているので読みにくさすらもこの小説の醍醐味として楽しめてしまいます。分かりづらいけど、ここはきっと消えたあの言葉のことを言いたいんだろうな、と読みながら推理するのも楽しいです。

またしばらくすると本格的に言葉が足りなくなって、聞いたことのないような言葉を使ってでもどうにか表現しようと頑張っている様子が面白いです。いや分からん分からん。


読んでいて一番すごいと思ったのは、作者の語彙力です。

作中に出てくる一般人はみんな音が減るにつれて使える言葉が減って、全然まともに話せなくなるんですけど、主人公は最後の最後までまともに話ができている。私だったら絶対に話せない一般人側になるので、いやはや作家というのはさすがに言葉のプロだなと感服しました。

真似してみたいところですが、できて一音をなくすくらいかな。


音が消えることでそれを表す言葉が消えて、言葉が消えると世界からもそれそのものが消えてしまうって、もちろんフィクションではあるんですが、でも割と現実に近い考え方だなと思います。

目の前に二本の棒切れがあったとして、それが何?って感じだと思うんですが、それは「箸」だよって言われればそれはもう箸になる、みたいな。だから反対に「箸」という呼称が消えるとそれはただの二本の棒切れに戻ってしまう。

モノって、その形や機能を表す名前をつけて初めて存在するようになる気がするんです。名前のないモノはただのガラクタに見える、でもそれに名前がついた途端、存在に意味が生まれる。名前がない有象無象はたとえ視界に入っていても「その他」として一括りにされて認識の外に弾き出されてしまう。漫画のバックに描かれている顔のないモブがそんな感じですよね。


自分の大切なものに名前を与えるのって、そう考えるととても重要な行為なんだなと分かります。

私は亀のぬいぐるみを三体持っていて、それぞれに「カメ〜」から始まる名前をつけています。名前をつけたことでそのぬいぐるみたちは私にとって、ただのぬいぐるみから「愛着の対象」にグレードアップしました。

ただまあ名前を与えればなんでも愛着の対象になるということではなくて、名前にどんな意味を持たせているかが重要なんだとは思います。私は最初から可愛がるつもりで名前をつけたのでそうなっていますが、憎い奴の名前をつけてサンドバックにする人もいるかもしれませんし……。

SNSで使うハンドルネームは自分で決める人が多いと思いますが、よく考えて決めた方がよさそうに思えてきます。自分がそのハンドルネームを使うとき、どんな顔をした自分でありたいのか。


さて、私の一次創作の話になりますが、この本の試みにはユリウスの内面にも通ずるところがあるなと思いながら読んでいました。

ユリウスはもともと決まった自分の名前を持っていなかったのですが、自分で自分のことが分からなくなってしまったので、ずっと変えない自分の名前を決めることで自分の存在を固定しようとしました。

名前を与えることで、今まで捕捉できなかった自分自身の輪郭を掴もうとした。あるいは、今まで存在していなかった自分という人格を新たに作り上げようとした。

名前を失うことで世界から存在が消えてしまうこの小説と、名前をつけることで今まで掴めなかった自分という存在を世界に表そうとしたユリウス。やっていることは真逆なんですが、根底にある理屈は同じなんです。

だからユリウスはこの小説のような試みは怖くて実行できなさそうです。自分を表す音が消えたら、まだ一人称で「僕」と表現できたとしてもその時点で視点人物が消失して小説が終わりそう。


思いのほか長い記事になりました。

最後に、実はこの記事からは「け」の音が消えていました。お気づきになりましたか?

私の亀のぬいぐるみの名前はそれぞれ「カメきち」「カメた」「カメすけ」です。固有名詞は他の言葉で言い換えようがないので書くことができませんでした。

もし私が気づいていない「け」が残っていたら教えてください!

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